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「写真」でなにができるのか

  写す写真ではなく、創る写真へ

他の誰でもない「わたし」の写真

 京都造形美術大学に入学し1年が過ぎようとしている。勢いとタイミングが奇跡的に合致して入学が実現した。ちょうど良い時期だから、なぜ時間とお金を使って美術大学で写真を学ぼうと思ったのかを振り返ってみたい。

 私が写真を撮りだしたのは二十歳頃だったと思う。きちんと意識して写真を撮ったのは、北海道へのスキー旅行で写ルンですを購入したのがおそらく最初だった。それ以後旅行のたびに写ルンですを利用した。それからは海外旅行から帰国するたびもっと綺麗に写真を残したいという思いが湧いてくるようになっていった。

コンパクトカメラ、コンパクトデジタルカメラとカメラを変遷しながら、写真に強く興味を持つ事になったきっかけは夜景を撮りはじめたことだった。どうにか夜景を綺麗に残したくて、いろいろと思考錯誤をしたことが技術習得に大いに役立った。そしてある日ついにデジタル一眼を手にすることとなって、必然的に写真教室などに通う経験を通して自分の思うような、綺麗な写真を撮ることができるようになっていった。

 綺麗な光景を綺麗に写す。それがその当時の私の写真であった。それゆえ綺麗な光景を探し求めたが、それは逆を言えば綺麗な風景がなければ写真が撮れないとも言えたわけである。

 話が脱線してしまったが、「写真」でなにができるのか?である。私が通信教育とはいえ美術大学の写真コースに入学したのは、他の誰でもない自分の写真を『撮りたい』と思ったからだ。テクニックだけでは乗り越えられない壁を超えていくヒントをそこに求めてのことだった。まだあと1年を残すとはいえ、この1年で私の写真の捉え方は劇的に変化したと言える。それはどういうことかというと、自分の写真を『撮りたい』から『創りたい』への変化だと言えるだろう。アンセル・アダムスが「写真は撮るのではない、創るものだ」と言っていた、まさにそのことなのである。

 我々は知らず知らず「写真」とはこういうものだという概念に縛られている。天気は晴れていた方がよい、逆光はよくない、水平垂直はキッチリ、表情は満面の笑顔で、解像度はより高くなど、数えればキリがない。

 

そして決定的なのは「これは何が写っていう写真?」という質問・疑問ではないだろうか。

 

この質問の意味するところは、写真を写真として鑑賞することなく、写っているものが何であるか認識することが目的化してしまっている、またはその危険性を暗示していると言える。写真にしかできない正確な記録性は単に写真の持っている機能のひとつに過ぎず、写真はもっと自由であっても良いのだ。よく言われることであるが敢えて区別するなら、カメラマンと写真家の写真は根本的に異なるのだ。

 写真を絵画やデザインと同等に扱うならば、これまで写真が内包してきた既成概念に縛られる必要などない。絵を描くように自分の思うままに写真を撮ればよいのだ。ただしデタラメにやるのではなく、強い意思と熱意をもってやる必要があることは承知の通りである。

 

 この方向性こそが「他の誰でもない自分の写真」へのヒントになると考えている。小難しことを押し付けるつもりはないが、このような自由な写真の可能性を信じることが、今後写真を撮っていく際の道標となり得るのではないだろうか。

 まだ試行錯誤を開始したばかりだが、現在のテーマを「線」に設定した。この世界にある風景の中に無数に存在する「線」を写真を用いて切り取っていくつもりである。

「線」とくに「直線」は水辺線や地平線を除けば自然界には基本的に存在しない。「線」「直線」は人間が作り出す唯一の形状なのだ。だから私は「線」にとても惹かれるし、それをテーマに創作をしてみたいと感じるのだ。

この試みが私ならではの写真に繋がっって行くことを祈るばかりである。