ステートメントは設計図である
私は芸術大学での3年間の学びでようやくわかったことがある。
それは写真とステートメントの関係だ。それについて書いていこうと思う。
まず状況説明からはじめよう。
3年前の今頃、私にとっての写真とは「綺麗な景色を綺麗に撮る」という存在であった。
(これは写真に対する考え方の例えなのである)その当時の私は写真といえば綺麗に撮れた写真が1枚あることで写真は完結していると思っていた。逆に写真を何枚も組み合わせて作品にするという考え方をまったく持っていなかった。これが3年前の今頃の私の状況である。
その頃私は、もっと自分の写真に厚みや深みが必要と感じていた。そこでできることとして考えたのが芸術大学で写真を学ぶことであった。時間的制限を鑑みて、通信写真コースのある京都造形芸術大学に入学を決めた。あまり深くかんがえることなしに、ノリで入学をしてしまった。
入学から1年が経過し、2年が経過するころには、入学前の狭かった視野が少しずつ拡がっていく感覚があったし、写真家が作り出す写真の世界もわずかながら理解できようになっていった。
歴史的な写真家の作品を見ることや、現在活躍している写真家の作品、大学の先輩方の作品を見ることなどを通して、自分の好き嫌いを発見していったように思う。
入学した写真コースでの最大の課題は、自分自信の作品を制作し発表することであったので、入学から2年もすると自分自身が表現したいと思うテーマでの写真作品制作を求められた。
人の作品を見ていると、ここがイマイチとかここが良くないとか評論家のような視点でいろいろな思いが湧き出てくるが、いざ自分が作る立場となると状況は一変した。
「まずなにを表現したいのかがわからない」
写真とは芸術の中でも最も安易な芸術である。カメラという精密機械がなんとなく良さげに作品のほとんどを仕上げてくれるからだ。これまで自分という主体性を欠いたままカメラに頼り切って芸術家を気取っていた自分に気づく体験でもあった。
それでもわからないなりに、時間と労力をかけ試行錯誤しながら徐々に自分の作品を作り上げていった、それを約1年継続し、なんとか作品と呼べそうなものを作り上げた。
そしてそれを公に発表することとなった。
これまでが、今回の表題の状況説明である。
写真というものは見る人に様々な解釈を可能にする。
もちろん作品は、鑑賞者がどう感じるかに委ねて良いのであるが、委ねるにしてもある程度の範囲を指定してあげる必要がある。作者の意図とまったく異なる方向に解釈されないように、言葉である程度説明をし制作意図を解釈する手助けとする必要があるのだ。
ステートメントに関して私は、そこまでの理解はできていた。数十枚の写真からなる写真作品を解釈するための言葉による説明がステートメントであるという理解をしていたということだ。
もう少し正確に言うと、解釈の範囲を限定する説明文がステートメントであると思っていた。
作品を発表するとはどういうことか?大きく言って二つの形態があり、ひとつが展示。もうひとつが写真集である。決して SNS や WEB に掲載することではない。ではステーメントを軸にまとめられた作品はどのように最終形態になっていくのだろうか。
写真をまとめきったあとは、作品として展示する段階に進むことになる。ほとんどの場合展示するとしても展示できるスペースの関係で、作品すべてを壁に飾れるわけではない。展示を行うためには作品の中から展示可能枚数をセレクトする必要がある。セレクトはただ気に入った写真を選べば良いという訳ではなく、選んだ写真それぞれが展示作品としての一貫性を持っている必要がある。
そこで必要になるのが、またここでも登場するステートメントなのだ。
ステートメントとは写真作品における設計図とも言われる。
言ってみれば、ステートメントのもとに写真が集まってくる訳で、このステートメントがフラフラしていては集まってくる写真も不安定でまとることがない。私は今回の卒業制作の作品作りから展示までの間に、ステートメントを何度も変更したことによって自分自身を相当苦しめた。
確固としたステートメントがなければ写真をセレクトすることができないのだ。ステートメントが変わるたびに選ぶべき写真が変わってしまうのだ。
なんとなく気に入った写真を選ぶだけでは、セレクトした何枚もの写真たちが作品としてまとまってひとつの作品に見えないのだ。
ある写真家がこう言っていた。
「写真を撮ったら、私は撮影した写真を見返して言葉に変換します。そしてまた撮影をし、それをまた言葉に変換します。作品としてまとめていく過程で考えやテーマは変化していくものですが、その都度、制作過程の中で言葉にしていきます」
このように本来は、制作過程の段階から言葉にしたものが最終的なステートメントになる訳である。もちろん撮影した写真を眺めて最後にステートメントをつける場合もあるだろう。ただ今回私が感じたのは、最後に「作品としてまとめるため」という理由で考えたステートメントは作品の写真となかなか整合しないということだ。
写真と言葉との間にズレが生じると、結局作品の強度が不足する。
「写真は言葉である」といったら言い過ぎだろうか。しかし今回の卒業制作の経験で、言葉と写真は切ってもきれない関係であると痛感しているし、仮にステートメントをつけないとしても自分自身との対話としてのステートメントは絶対に必要だと確信する。
最終的な作品が目指す道標として、または完成する建物の設計図のような役割として自分自身のためにステートメントが必要なのだ。
これからの制作は、まずステートメントからスタートするつもりだ。
最終形の展示までの過程を頭に入れつつ、言葉とイメージの対話を継続していこうと思う。